■ファシリテーターとしての第四段階「躍龍(やくりゅう)」
基本と技、実力を身につけた龍が兆しを見極め天に舞い上がるタイミングを待つ段階だそうです。「あるいは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)り。咎(とが)なし。」あっこちゃん(2012)は、この段階を「躍龍(やくりゅう)」と名付けています。
大きな飛躍の機を捉えるために、ある時には跳躍して天に舞い上がろうとしたり、ある時は潜龍がいた淵に戻ってはじめに立てた志に立ち戻ったりしなさいと。そうすれば、あやまったりすることはないでしょうという意味だそうです。到達するための志を前にしてスランプに陥ることがあるということです。それは、好調と不調の波があり、不安定に大きく上下する時期でもあります。あっこちゃんは躍龍はこの不安定さがいいのですとも言っています。躍龍は、何度かのスランプを乗り越えながら、一層の力をつけて、落ち込みをバネに天に舞い上がり、「飛龍(ひりゅう)」となるのです。
前回、私がラボラトリー方式の体験学習のファシリテーターとして自由に振る舞えるようになったきっかけとして、留学経験と、改めてのNTL主催のTグループへの参加体験、そして留学の最後に参加したトレーナートレーニング体験です。これらの体験は、津村のファシリテーターとしての力量とグループや人に臨む姿勢を育ててくれました。
留学先のマサチューセッツ大学アムハースト校では、ヒューマニスティック・エデュケーションの一つのプログラムとしてのセルフサイエンスを学んできました。留学した最初は、Tグループなどのグループ体験を研究するつもりでしたが、訪ねて行ったG.ウェインシュタイン教授は、「もう、おれはグループはやめた!」との一言。そして、「グループを研究したければ、隣の研究室の教授を紹介するよ。」と。これはあわてました。でも、やはり初志貫徹、G.ウェイシュタイン先生から学ぼうと、方向転換をしたのです。それが、セルフサイエンス・プログラムでした。
このプログラムは、学部教育でも、大学院教育でも実践されていて、G.ウェインシュタイ教授が開発した「エデュケーション・オブ・セルフ」というコース名でプログラウ展開されていました。G.ウェインシュタイン先生とは、いろいろな問題がありました。なかなか堅物の先生で、「なんでもいいから質問があれば、してもいいよ!」と言ってくれたので、いくつかの問題と感じることを津村が話すと、「君と話をすると、コンフリクトを感じるから、もう帰れ」的な発言。これまたあわてましたが、ドクターコースに在籍していた女性の大学院生ジュリーに助けられ、無事一年間学ぶことができました。
この大波を体験する一年間は私にとっては、ラボラトリー方式の体験学習の可能性をたくさん感じることができた一年でもありました。結局、このコースを体験することで、ラボラトリー方式の体験学習の応用版を修得し、学生や社会人などいろいろな方がたに応用実践することができるスキルと知識を習得し、体験学習の循環過程の視点のバリエーションの豊かさを学ぶことができたのでした。
NTLでのトレーナートレーニングの2週間のプログラムの参加体験も私のファシリテーターとしての幅を広げてくれました。それは、留学後、Tグループに臨む姿勢を本当に柔軟にさせてくれる体験でもありました。
2014年08月27日
2014年08月25日
易経に学ぶファシリテーション(17)
■ファシリテーターとしての第三段階「乾タ(けんてき)」
師からコピーをするように身につけた技に磨きをかけるのが、この「君子終日乾乾(くんししゅうじつけんけん」の段階だそうです。「君子終日乾乾」の「乾乾」は、積極的に前に進むという語が二つ重なっているのです。積極的に前に前に進み、できることを果敢に取り組みなさいという教えだそうです。朝から晩まで繰り返し邁進して努力をするステージです。
しかし、いつもうまくいくとは限りません。一日の終わりに、今日の自分をふりかえり自分が行ったことを本当にこれでよかったのか、うまくいっても反省しながら自分自身を育てる時期でもあります。基本をマスターした龍は、繰り返し基本を実践しながら、自分の足りないものは何か、自分をよりよくするためには何ができるのかを探求する段階なのです。
師から学んだ基礎をいかに応用の場の中で活用できるかを挑戦しながら、失敗をふりかえり、また成功であってもふりかえり、学び続ける姿勢が備わるかどうかが大きな課題ではないかと思います。それは、時には、自分一人ではふりかえれない時には、他者からのフィードバックも貴重なふりかえりのデータになるのだと思います。いかにふりかえりの視点を身につけるかもこの時期、大事なポイントのように思います。
前回、学生からの私への「喝」と書いたのは、南山短大人間関係科のカリキュラムで、短期大学卒業間際に卒業合宿というのがありました。その企画の中で、学生投票による教員ワースト10を選ぶ企画があり、ワーストワンに津村が選ばれたのです。これは、正直ショッキングな出来事でした。いまから思えば、教員にとってみると、厳しくつらい企画ですよね。良い意味では、津村は、そんなふうに選んでも大丈夫な教員、そのようなネガティブなことも言える教員であったといえるのかもしれません。しかし、この強烈なフィードバックは、私の教育現場での自分の姿を考える良い機会になりました。なぜ、私がワーストワンなのか?学生に聴くと、「先生が何を考えているのかわからない!」、「先生との距離を感じる!」というようなことを話してくれました。
その中で、ハッとしたのです。この職に就いた頃、特に最初の非常勤時代には、疑問に感じて人間関係科の教員に反発をもって学生の見方をしていた私が、この時期には逆にその時に反発を感じていた行動を当たり前のようにしていたのです。それは、学生が質問を教員にすると、当時、老練な先生方は、「君はどう思いますか?」と応答していたのです。そうした応答に、若かりし頃の津村は、「なんで答えてあげないのですか?」と文句を言っていたのです。せっかく学生が質問しているのに、それに答えずに、質問で返すという行為、このことに腹を立てていたのです。それが、体験学習のファシリテーターは、教えるのではなく、気づくこと、気づきを促進することなのだと理解すると、多くの教員がやっているように、機械的に「君どう思う?」と質問で返していたのではないかと思います。その応答は、津村の考えを述べるわけでもなく、しっかり今起こっている状況を説明するわけではないので、確かに、津村の考えていることはわからず、津村との距離も遠くなっていったのだろうと考えました。それからは、そのような応答ではなく、できる限り自分の考えていることや感じていることもしっかり伝えるようにしたものです。
ラボラトリー方式の体験学習のもう一人の私の師と仰ぐ、星野欣生先生(南山短大名誉教授)の存在も私に大きく影響を与えてくれました。星野先生は、いろいろな教育現場に連れて行ってくださいました。企業の研修、看護医療の世界での研修、その他かなり幅広くお供をさせていただいたり、後にはいろいろな現場を紹介してくださり、失敗を重ねながらも、ラボラトリー方式の体験学習のファシリテーター体験を積むことができました。まさに師から学んだ基礎を応用する場面をたくさん星野先生からいただけたのです。そして、今も星野先生からは学んでいます。
このように、自分と学習者との関係や学習者の学びの促進の仕方などをふりかえることを行い、私のファシリテーターとしての礎ができていったのではないかと考えています。まさに「乾タ(けんてき)」の時代を過ごしたのではないかと、回顧しています。
さらに、私をファシリテーターとして自由に動くことを可能性させてくれたのは、米国留学とTグループの参加者体験、そしてトレーナートレーニングの研修参加でした。
師からコピーをするように身につけた技に磨きをかけるのが、この「君子終日乾乾(くんししゅうじつけんけん」の段階だそうです。「君子終日乾乾」の「乾乾」は、積極的に前に進むという語が二つ重なっているのです。積極的に前に前に進み、できることを果敢に取り組みなさいという教えだそうです。朝から晩まで繰り返し邁進して努力をするステージです。
しかし、いつもうまくいくとは限りません。一日の終わりに、今日の自分をふりかえり自分が行ったことを本当にこれでよかったのか、うまくいっても反省しながら自分自身を育てる時期でもあります。基本をマスターした龍は、繰り返し基本を実践しながら、自分の足りないものは何か、自分をよりよくするためには何ができるのかを探求する段階なのです。
師から学んだ基礎をいかに応用の場の中で活用できるかを挑戦しながら、失敗をふりかえり、また成功であってもふりかえり、学び続ける姿勢が備わるかどうかが大きな課題ではないかと思います。それは、時には、自分一人ではふりかえれない時には、他者からのフィードバックも貴重なふりかえりのデータになるのだと思います。いかにふりかえりの視点を身につけるかもこの時期、大事なポイントのように思います。
前回、学生からの私への「喝」と書いたのは、南山短大人間関係科のカリキュラムで、短期大学卒業間際に卒業合宿というのがありました。その企画の中で、学生投票による教員ワースト10を選ぶ企画があり、ワーストワンに津村が選ばれたのです。これは、正直ショッキングな出来事でした。いまから思えば、教員にとってみると、厳しくつらい企画ですよね。良い意味では、津村は、そんなふうに選んでも大丈夫な教員、そのようなネガティブなことも言える教員であったといえるのかもしれません。しかし、この強烈なフィードバックは、私の教育現場での自分の姿を考える良い機会になりました。なぜ、私がワーストワンなのか?学生に聴くと、「先生が何を考えているのかわからない!」、「先生との距離を感じる!」というようなことを話してくれました。
その中で、ハッとしたのです。この職に就いた頃、特に最初の非常勤時代には、疑問に感じて人間関係科の教員に反発をもって学生の見方をしていた私が、この時期には逆にその時に反発を感じていた行動を当たり前のようにしていたのです。それは、学生が質問を教員にすると、当時、老練な先生方は、「君はどう思いますか?」と応答していたのです。そうした応答に、若かりし頃の津村は、「なんで答えてあげないのですか?」と文句を言っていたのです。せっかく学生が質問しているのに、それに答えずに、質問で返すという行為、このことに腹を立てていたのです。それが、体験学習のファシリテーターは、教えるのではなく、気づくこと、気づきを促進することなのだと理解すると、多くの教員がやっているように、機械的に「君どう思う?」と質問で返していたのではないかと思います。その応答は、津村の考えを述べるわけでもなく、しっかり今起こっている状況を説明するわけではないので、確かに、津村の考えていることはわからず、津村との距離も遠くなっていったのだろうと考えました。それからは、そのような応答ではなく、できる限り自分の考えていることや感じていることもしっかり伝えるようにしたものです。
ラボラトリー方式の体験学習のもう一人の私の師と仰ぐ、星野欣生先生(南山短大名誉教授)の存在も私に大きく影響を与えてくれました。星野先生は、いろいろな教育現場に連れて行ってくださいました。企業の研修、看護医療の世界での研修、その他かなり幅広くお供をさせていただいたり、後にはいろいろな現場を紹介してくださり、失敗を重ねながらも、ラボラトリー方式の体験学習のファシリテーター体験を積むことができました。まさに師から学んだ基礎を応用する場面をたくさん星野先生からいただけたのです。そして、今も星野先生からは学んでいます。
このように、自分と学習者との関係や学習者の学びの促進の仕方などをふりかえることを行い、私のファシリテーターとしての礎ができていったのではないかと考えています。まさに「乾タ(けんてき)」の時代を過ごしたのではないかと、回顧しています。
さらに、私をファシリテーターとして自由に動くことを可能性させてくれたのは、米国留学とTグループの参加者体験、そしてトレーナートレーニングの研修参加でした。
2014年08月24日
易経に学ぶファシリテーション(16)
■ファシリテーターとしての第二段階「見龍(けんりゅう)」
潜み隠れていた龍が、ようやく時を経て地上に現れる「見龍」の時代です。「見」という字には、見て学ぶ、見習うという意味を含んでいるそうです。この時代、物事に向き合う姿勢、行動の基本の「型」を見習って、しっかりと身につけていくことが大切になります。師の癖まで似てくるほど大人をコピーすることが、基本の型のマスターだとあっこちゃんは書いてくれています。ただ、ある程度マスターしたら、あたかもやれるようになったと錯覚に陥り、「これは自分のやり方に合わない」などと自分勝手な考えが生まれ、型が崩れることが起こるようです。中途半端な時点での挫折は禁物です。
こうした時代を、私も歩んだように思います。南山短期大学人間関係科に着任した春から、授業をともにする人たちとのスタッフミーティングで先輩諸氏がどのように考え、どのように振る舞っているのか、見ながら修得していきました。特に、Tグループ(人間関係トレーニング)というラボラトリー方式の体験学習のコアとなるプログラムでのファシリテーター体験では、参加者・対象が学生だけでなく、社会人の人々が集まるTグループのセミナーにも、よく連れ出してもらいました。これは、私の今の宝物の体験です。その師は、中堀仁四郎氏です。私がTグループに関わりだした初期の頃のTグループには、本当にいつも中堀先生とともにトレーナー(ファシリテーター)体験をさせていただき、学ばせてもらいました。参加者の方からは、中堀仁四郎二世かといわれるぐらい、時には中堀さんのコピーかと言われるくらい、グループの中での津村の発言から所作に至るまで似ていた時があったようです。確かに、自分でも滑稽に思うほど、話し方、グループの中でのいすに座る際のすわり方さえ、似ていたのを今でも思い出します。
そのほかにも、大学の学内の授業は、複数の教員が担当するチームティーチングで、南山短大人間関係科の授業は行われていましたので、諸先輩がたの教え方やふるまい方を見よう見まねで習い、授業内での津村の振る舞いや、学外合宿での学生とのやりとりなどを学ばせていただきました。そうした中で、知らず知らずのうちに、どうも型にはまった問いかけをするようにもなっていたようです。これがしばらくしてから、私のファシリテーター、教員としての姿勢を新たに考え直すきっかけを提供してくれることになったのです。それは、学生からの私への「渇」といったらいいかもしれません。
潜み隠れていた龍が、ようやく時を経て地上に現れる「見龍」の時代です。「見」という字には、見て学ぶ、見習うという意味を含んでいるそうです。この時代、物事に向き合う姿勢、行動の基本の「型」を見習って、しっかりと身につけていくことが大切になります。師の癖まで似てくるほど大人をコピーすることが、基本の型のマスターだとあっこちゃんは書いてくれています。ただ、ある程度マスターしたら、あたかもやれるようになったと錯覚に陥り、「これは自分のやり方に合わない」などと自分勝手な考えが生まれ、型が崩れることが起こるようです。中途半端な時点での挫折は禁物です。
こうした時代を、私も歩んだように思います。南山短期大学人間関係科に着任した春から、授業をともにする人たちとのスタッフミーティングで先輩諸氏がどのように考え、どのように振る舞っているのか、見ながら修得していきました。特に、Tグループ(人間関係トレーニング)というラボラトリー方式の体験学習のコアとなるプログラムでのファシリテーター体験では、参加者・対象が学生だけでなく、社会人の人々が集まるTグループのセミナーにも、よく連れ出してもらいました。これは、私の今の宝物の体験です。その師は、中堀仁四郎氏です。私がTグループに関わりだした初期の頃のTグループには、本当にいつも中堀先生とともにトレーナー(ファシリテーター)体験をさせていただき、学ばせてもらいました。参加者の方からは、中堀仁四郎二世かといわれるぐらい、時には中堀さんのコピーかと言われるくらい、グループの中での津村の発言から所作に至るまで似ていた時があったようです。確かに、自分でも滑稽に思うほど、話し方、グループの中でのいすに座る際のすわり方さえ、似ていたのを今でも思い出します。
そのほかにも、大学の学内の授業は、複数の教員が担当するチームティーチングで、南山短大人間関係科の授業は行われていましたので、諸先輩がたの教え方やふるまい方を見よう見まねで習い、授業内での津村の振る舞いや、学外合宿での学生とのやりとりなどを学ばせていただきました。そうした中で、知らず知らずのうちに、どうも型にはまった問いかけをするようにもなっていたようです。これがしばらくしてから、私のファシリテーター、教員としての姿勢を新たに考え直すきっかけを提供してくれることになったのです。それは、学生からの私への「渇」といったらいいかもしれません。
2014年08月21日
易経に学ぶファシリテーション(15)
■ファシリテーターとしての第一段階「潜龍(せんりゅう)」の時代
今回から、6回ぐらいの掲載は、私自身がファシリテーターとして、育ってくる過程をふりかえってみたいと思います。「潜龍」の時代から、ピークを迎え「亢龍(こうりゅう)」の時代まで達しているのかどうかわかりませんが、少なくとも年をとってしまった自分をふりかえるいい機会として、「乾為天」の6つのプロセスの教えを手がかりにふりかえってみたいと思います。
さて、「潜龍」とは龍の能力を秘めてはいても、まだ時を得ず、力もなく、世に現れることもできない龍の時代と書かれています。それは、何かの世界に飛び込み、本格的に動き出す前の時代と言っていいのかもしれません。「潜龍」の時代は、季節でいうなら、冬の時代であり、何も芽生えない冬の不毛の大地の状況です。冬の大地が春に備えて滋養を備えるように、動かず、静かにじっくりと内面の力を養う時だそうです。
その時に何をするのか?ここで一番大切なのは「確乎としてそれぬくべからざるは、潜龍なり」と書かれており、「確乎不抜(かっこふばつ)」の出典になっているようです。この時代にしっかりとした、抜きがたい、ぐらつかない志を打ち立てることが大切になるのです。
思い起こせば、ラボラトリー方式の体験学習に触れるきっかけになったのは、名古屋大学大学院の博士前期課程を修了したその年に、南山短期大学人間関係科に非常勤講師として伺うことになったことからです。当時は、1週間に2コマの授業が2回ぐらいあり、前期の半分で一つの科目が終了するといったかなり大学の教育では異例な画期的な授業形態をとっていました。さすがにこの私もこの授業形態に面食らいました。2コマ続きの授業自身、自分が経験していないし、実習などの体験をした後、ふりかえり用紙というものに、自分の気持ちや気づきを書くことも驚きでした。それを「わかちあう」という言葉も・・・。2年ほど非常勤講師時代を過ごし、常勤講師として着任が決まったのが、1979年の4月でした。着任する前のその年の2月にJICE(立教大学キリスト教教育研究所)主催のTグループ(人間関係トレーニング)に参加することを促され参加したのが、本格的なラボラトリー方式の体験学習との出会いでした。
面食らった中に、当時、初代学科長のメリット先生からは、非常勤時代も含め、「講義はしなくてもいいです。学生の体験を大切にしてください。」と言われてもなんのことかさっぱりわからないことが多かったのを覚えています。もともと社会心理学専攻の私としては、どんなモデル、理論を教えようかとかとわくわくしながら考えていました。どのような流れで15週の授業を進めるのがいいのか、いろいろ考えていた私には、「教えなくてもいい」は思いがけないメッセージでした。
そして、2月に参加したTグループ体験後すぐに、着任前の3月に学生のTグループにトレーナー(ファシリテーター)として参加してくださいと言われ、にわかトレーナー(ファシリテーター)体験をすることになってしまったのです。すでに、人間関係科の授業では、教師(ファシリテーターという意識は当時していなかったのですが)ではあったのですが。この5泊6日の濃密な学生との体験、また一緒に組んでくださったもう一人のトレーナー(ファシリテーター)の方との体験が、まさに何もわからない沼地に入っている潜龍のごとく、手も足も出せない状況であったことを今でも鮮明に覚えています。老練なトレーナー(ファシリテーター)は、私から見ると、学生たちを赤子を扱うように、グループ内の関係を濃密にしていったのです。ただ、その過程で起こっている、まさにプロセスは、参加者である学生、またともにいる私(コ・ファシリテーター)にとっては、暗闇の世界での出来事だったように思えたのです。
そのような苦しい状況の中で、「グループのプロセスをていねいに扱い、グループメンバーとともにそのプロセスを大切にしながら学ぶことができるようなファシリテーターをめざそう」と堅く心に誓ったのが、この時でした。あれから35年。まさに、私が、35年来実現しようと努力してきた志です。「確乎不抜」。この志の実現をめざして、ここ35年あまり、ラボラトリー方式の体験学習のファシリテーターをめざしてきたのだと、いま改めて強く思っています。まさに、このときが、「潜龍」の時代だったのではないでしょうか。
今回から、6回ぐらいの掲載は、私自身がファシリテーターとして、育ってくる過程をふりかえってみたいと思います。「潜龍」の時代から、ピークを迎え「亢龍(こうりゅう)」の時代まで達しているのかどうかわかりませんが、少なくとも年をとってしまった自分をふりかえるいい機会として、「乾為天」の6つのプロセスの教えを手がかりにふりかえってみたいと思います。
さて、「潜龍」とは龍の能力を秘めてはいても、まだ時を得ず、力もなく、世に現れることもできない龍の時代と書かれています。それは、何かの世界に飛び込み、本格的に動き出す前の時代と言っていいのかもしれません。「潜龍」の時代は、季節でいうなら、冬の時代であり、何も芽生えない冬の不毛の大地の状況です。冬の大地が春に備えて滋養を備えるように、動かず、静かにじっくりと内面の力を養う時だそうです。
その時に何をするのか?ここで一番大切なのは「確乎としてそれぬくべからざるは、潜龍なり」と書かれており、「確乎不抜(かっこふばつ)」の出典になっているようです。この時代にしっかりとした、抜きがたい、ぐらつかない志を打ち立てることが大切になるのです。
思い起こせば、ラボラトリー方式の体験学習に触れるきっかけになったのは、名古屋大学大学院の博士前期課程を修了したその年に、南山短期大学人間関係科に非常勤講師として伺うことになったことからです。当時は、1週間に2コマの授業が2回ぐらいあり、前期の半分で一つの科目が終了するといったかなり大学の教育では異例な画期的な授業形態をとっていました。さすがにこの私もこの授業形態に面食らいました。2コマ続きの授業自身、自分が経験していないし、実習などの体験をした後、ふりかえり用紙というものに、自分の気持ちや気づきを書くことも驚きでした。それを「わかちあう」という言葉も・・・。2年ほど非常勤講師時代を過ごし、常勤講師として着任が決まったのが、1979年の4月でした。着任する前のその年の2月にJICE(立教大学キリスト教教育研究所)主催のTグループ(人間関係トレーニング)に参加することを促され参加したのが、本格的なラボラトリー方式の体験学習との出会いでした。
面食らった中に、当時、初代学科長のメリット先生からは、非常勤時代も含め、「講義はしなくてもいいです。学生の体験を大切にしてください。」と言われてもなんのことかさっぱりわからないことが多かったのを覚えています。もともと社会心理学専攻の私としては、どんなモデル、理論を教えようかとかとわくわくしながら考えていました。どのような流れで15週の授業を進めるのがいいのか、いろいろ考えていた私には、「教えなくてもいい」は思いがけないメッセージでした。
そして、2月に参加したTグループ体験後すぐに、着任前の3月に学生のTグループにトレーナー(ファシリテーター)として参加してくださいと言われ、にわかトレーナー(ファシリテーター)体験をすることになってしまったのです。すでに、人間関係科の授業では、教師(ファシリテーターという意識は当時していなかったのですが)ではあったのですが。この5泊6日の濃密な学生との体験、また一緒に組んでくださったもう一人のトレーナー(ファシリテーター)の方との体験が、まさに何もわからない沼地に入っている潜龍のごとく、手も足も出せない状況であったことを今でも鮮明に覚えています。老練なトレーナー(ファシリテーター)は、私から見ると、学生たちを赤子を扱うように、グループ内の関係を濃密にしていったのです。ただ、その過程で起こっている、まさにプロセスは、参加者である学生、またともにいる私(コ・ファシリテーター)にとっては、暗闇の世界での出来事だったように思えたのです。
そのような苦しい状況の中で、「グループのプロセスをていねいに扱い、グループメンバーとともにそのプロセスを大切にしながら学ぶことができるようなファシリテーターをめざそう」と堅く心に誓ったのが、この時でした。あれから35年。まさに、私が、35年来実現しようと努力してきた志です。「確乎不抜」。この志の実現をめざして、ここ35年あまり、ラボラトリー方式の体験学習のファシリテーターをめざしてきたのだと、いま改めて強く思っています。まさに、このときが、「潜龍」の時代だったのではないでしょうか。
2014年08月19日
易経に学ぶファシリテーション(14)
■「乾為天」の6つの龍の成長プロセス
六十四卦の陰と陽の組み合わせのうち、すべてが陽で組み合わされているのが「乾為天」といわれるそうです。八卦の乾(天)+++が二つ重なった卦で天の働きについて説いている卦だそうです。先日発刊された、あっこちゃんこと易経研究家の竹村亞希子さん著書『リーダーの易経『兆し』を察知する力をきたえる」(角川SSC新書)の主たるテーマがこの「乾為天」です。この「乾為天」の6つのプロセスの話をもとに優れたリーダーへと成長していくためのステップを伝えてくれているのです。その中で、6種類の龍が登場します。易経では、龍は組織のリーダーのたとえとのことです。龍は、その働きがリーダーの働きで、龍が雲を呼び雨が降らせる、地上の万物を養う生き物としてたとえられているのです。龍が六段階のステップを経て、優れたリーダーに成長していくというのです。それがリーダーとしての大切な指針を示していることになるのです。詳細な内容は、もちろんその著作をお読みとりください。
六段階のプロセスとして、第一段階は龍が地中深く暗い縁に潜み隠れている「潜龍(せんりゅう)」、第二段階は明るい地上に現れ目に見える「見龍(けんりゅう)」、第三段階は毎日同じことを繰り返し修養に励む「乾タ(けんてき)」、第四段階は修養を極めリーダーになる一歩手前の「躍龍(やくりゅう)」、第五段階は天を翔け雲を呼び雨を降らす「飛龍(ひりゅう)」、第六段階は高見に昇りすぎた龍が力が衰えて降る「亢龍(こうりゅう)」だと語られています。リーダーの成長のプロセスと栄枯盛衰のプロセスを教えてくれているようです。
あまり、よきリーダー、よきファシリテーターとして、成長した龍ではないのですが、この教えを手がかかりに自分のファシリテーター、特にラボラトリー方式の体験学習のファシリテーターとしてどのような道のりをたどりながら今に至っているのか、考えてみたいと思います。

六十四卦の陰と陽の組み合わせのうち、すべてが陽で組み合わされているのが「乾為天」といわれるそうです。八卦の乾(天)+++が二つ重なった卦で天の働きについて説いている卦だそうです。先日発刊された、あっこちゃんこと易経研究家の竹村亞希子さん著書『リーダーの易経『兆し』を察知する力をきたえる」(角川SSC新書)の主たるテーマがこの「乾為天」です。この「乾為天」の6つのプロセスの話をもとに優れたリーダーへと成長していくためのステップを伝えてくれているのです。その中で、6種類の龍が登場します。易経では、龍は組織のリーダーのたとえとのことです。龍は、その働きがリーダーの働きで、龍が雲を呼び雨が降らせる、地上の万物を養う生き物としてたとえられているのです。龍が六段階のステップを経て、優れたリーダーに成長していくというのです。それがリーダーとしての大切な指針を示していることになるのです。詳細な内容は、もちろんその著作をお読みとりください。
六段階のプロセスとして、第一段階は龍が地中深く暗い縁に潜み隠れている「潜龍(せんりゅう)」、第二段階は明るい地上に現れ目に見える「見龍(けんりゅう)」、第三段階は毎日同じことを繰り返し修養に励む「乾タ(けんてき)」、第四段階は修養を極めリーダーになる一歩手前の「躍龍(やくりゅう)」、第五段階は天を翔け雲を呼び雨を降らす「飛龍(ひりゅう)」、第六段階は高見に昇りすぎた龍が力が衰えて降る「亢龍(こうりゅう)」だと語られています。リーダーの成長のプロセスと栄枯盛衰のプロセスを教えてくれているようです。
あまり、よきリーダー、よきファシリテーターとして、成長した龍ではないのですが、この教えを手がかかりに自分のファシリテーター、特にラボラトリー方式の体験学習のファシリテーターとしてどのような道のりをたどりながら今に至っているのか、考えてみたいと思います。
2014年08月15日
易経に学ぶファシリテーション(13)
■六十四卦それぞれに6つのステージが語られる■
これから、このブログ、どちらに進めばよいのか?ちょっと一息入れたい状況です。この流れのままだと、人生の「時」を物語る六十四卦の話に展開することになるのでしょうか?あっこちゃんに聴いてみたいところです。
そこで、易経の卦について、もう一度簡単におさらいをしておきます。根源的な宇宙のパワー・この世のすべての物事が生まれるエネルギーの源として「太極(たいきょく)」があると考え、その「太極」は陰(-:実際には--と示されます)と陽(+:実際にはーとして示されます)の二面性が同時にもっていると考えられています。そしてそれを陰と陽の組み合わせ4種類(--、-+、+-、++)ができますが、これでも説明するには少ないとさらに組み合わせ8種(---、--+、-+-、-++、+--、+-+、++-、+++)ができて、これを「八卦」とよんでいます。この八卦を二つ重ねて六十四卦が作られています。陰陽の一つ一つの符号のことを「爻(こう)」とよび、六十四卦は六本の「爻(こう)」から構成されています。六十四卦に「卦名(かめい)」がついており、6本の「爻(こう)」で表されたものを「卦象(かしょう)」というそうです。各卦象は「卦辞(かじ)」といって、その卦の状況が最初に説明され、どのように対処すればよいかが説かれているとのことです。その一つひとつの状況に対して、6段階にステップに分けてそれぞれの小さな物語が語られ、それぞれで登場人物の地位や立場、人間関係の様子が説明され、その場その場で起こる場面の説明と対処のしかたを教えてくれているのが易経だそうです。あっこちゃんの著作より、かなり引用と学ばさせていただいています。
よってこの後は、六十四の卦のそれぞれの場面と段階を追った現象の理解と6つの段階的な展開とその教えを読み込むことによって易経から大きな学びが得られることになりそうです。六十四のどこからどのように手をつけたらよいのか、なかなか悩ましい課題です。
でも、そこはそこ、易経のすばらしい展開の仕方、システマチックなものの見方と教えが組み込まれているようです。ただ、「易経から学ぶファシリテーション」としては、どのような形でこの六十四の卦から学びをいただくのか、現在思案の最中です。
これから、このブログ、どちらに進めばよいのか?ちょっと一息入れたい状況です。この流れのままだと、人生の「時」を物語る六十四卦の話に展開することになるのでしょうか?あっこちゃんに聴いてみたいところです。
そこで、易経の卦について、もう一度簡単におさらいをしておきます。根源的な宇宙のパワー・この世のすべての物事が生まれるエネルギーの源として「太極(たいきょく)」があると考え、その「太極」は陰(-:実際には--と示されます)と陽(+:実際にはーとして示されます)の二面性が同時にもっていると考えられています。そしてそれを陰と陽の組み合わせ4種類(--、-+、+-、++)ができますが、これでも説明するには少ないとさらに組み合わせ8種(---、--+、-+-、-++、+--、+-+、++-、+++)ができて、これを「八卦」とよんでいます。この八卦を二つ重ねて六十四卦が作られています。陰陽の一つ一つの符号のことを「爻(こう)」とよび、六十四卦は六本の「爻(こう)」から構成されています。六十四卦に「卦名(かめい)」がついており、6本の「爻(こう)」で表されたものを「卦象(かしょう)」というそうです。各卦象は「卦辞(かじ)」といって、その卦の状況が最初に説明され、どのように対処すればよいかが説かれているとのことです。その一つひとつの状況に対して、6段階にステップに分けてそれぞれの小さな物語が語られ、それぞれで登場人物の地位や立場、人間関係の様子が説明され、その場その場で起こる場面の説明と対処のしかたを教えてくれているのが易経だそうです。あっこちゃんの著作より、かなり引用と学ばさせていただいています。
よってこの後は、六十四の卦のそれぞれの場面と段階を追った現象の理解と6つの段階的な展開とその教えを読み込むことによって易経から大きな学びが得られることになりそうです。六十四のどこからどのように手をつけたらよいのか、なかなか悩ましい課題です。
でも、そこはそこ、易経のすばらしい展開の仕方、システマチックなものの見方と教えが組み込まれているようです。ただ、「易経から学ぶファシリテーション」としては、どのような形でこの六十四の卦から学びをいただくのか、現在思案の最中です。
2014年08月13日
易経に学ぶファシリテーション(12)
■「陰と陽」の組み合わせで紡ぐ64のストーリー:六十四卦■
陰と陽のお話の続きです。すべてのものごと、できごとには陰と陽があるとのお話でしたが、まだまだ奥が深そうです。まず、それほど、単純に二面性でとらえるのは難しいでしょうというご意見も出そうです。人間の性格は、強いか弱いか、きびしいかやさしいかといった有無ではなく、少し強い少し弱いといったこともありそうです。
そこで、陰と陽を2種組み合わせて、4種類を作り、それでも単純すぎると言うことで、3種を組み合わせ8種類に分けたようです。それを、「八卦(はつか)」とよぶそうです。
それを、乾(けん) 兌(だ) 離(り) 震(しん) 巽(そん) 坎(かん) 艮(ごん) 坤(こん) 名付けています。それらを自然現象に配して、天(てん) 沢(たく) 火(か) 雷(らい) 風(ふう) 水(すい) 山(さん) 地(ち)と振り分け性質を示そうとしています。それぞれ8つに意味があるのです。詳細は、アッコちゃんの著作(2012&2014)をご覧ください。
そして、さらにその「八卦」を二つ重ねて、8×8の卦を作って、六十四卦が作られて、人間に起こりうるあらゆる時の物語が書かれているとのことです。まだまだ私には読み込めないほどの深さです。ただ、時の物語の時には、いわゆる時間としての時だけでなく、もっとストーリーとしての時が含まれているのです。たとえば、うれしかったときや苦しかったとき、どのような状況や環境で、そこに誰がいて、自分はどのような立場であって、そこでの人間関係や心理状況はどのようだったのか、そしてその結果はといった一連のシーンが時として刻まれているのです。
易経が教えてくれる「時」には、「時・処・位」が含まれているのです。「時」とは時代や時間の変化、タイミング、「処」は場所、環境、状況、心の状況、「位」は立場、地位、人間関係をさすそうです。かなり深みにはまりそうです。
ここでは、一人ひとりの状況を理解するときに、この3つの視点から彼・彼女が置かれたシーンを理解するようにしたいものです。まさに、人は「時・処・位」の複雑の様相の中で生きているのです。グループ体験を語ることも、またグループ体験の中で語られる参加者の生き様も、まさに「時・処・位」から一つのシーンとして理解することが大切なのでしょう。
そして、易経は、それぞれのシーンにあわせた対処の仕方も教えてくれるのだそうです。これから学んでいきたいと思います。
陰と陽のお話の続きです。すべてのものごと、できごとには陰と陽があるとのお話でしたが、まだまだ奥が深そうです。まず、それほど、単純に二面性でとらえるのは難しいでしょうというご意見も出そうです。人間の性格は、強いか弱いか、きびしいかやさしいかといった有無ではなく、少し強い少し弱いといったこともありそうです。
そこで、陰と陽を2種組み合わせて、4種類を作り、それでも単純すぎると言うことで、3種を組み合わせ8種類に分けたようです。それを、「八卦(はつか)」とよぶそうです。
それを、乾(けん) 兌(だ) 離(り) 震(しん) 巽(そん) 坎(かん) 艮(ごん) 坤(こん) 名付けています。それらを自然現象に配して、天(てん) 沢(たく) 火(か) 雷(らい) 風(ふう) 水(すい) 山(さん) 地(ち)と振り分け性質を示そうとしています。それぞれ8つに意味があるのです。詳細は、アッコちゃんの著作(2012&2014)をご覧ください。
そして、さらにその「八卦」を二つ重ねて、8×8の卦を作って、六十四卦が作られて、人間に起こりうるあらゆる時の物語が書かれているとのことです。まだまだ私には読み込めないほどの深さです。ただ、時の物語の時には、いわゆる時間としての時だけでなく、もっとストーリーとしての時が含まれているのです。たとえば、うれしかったときや苦しかったとき、どのような状況や環境で、そこに誰がいて、自分はどのような立場であって、そこでの人間関係や心理状況はどのようだったのか、そしてその結果はといった一連のシーンが時として刻まれているのです。
易経が教えてくれる「時」には、「時・処・位」が含まれているのです。「時」とは時代や時間の変化、タイミング、「処」は場所、環境、状況、心の状況、「位」は立場、地位、人間関係をさすそうです。かなり深みにはまりそうです。
ここでは、一人ひとりの状況を理解するときに、この3つの視点から彼・彼女が置かれたシーンを理解するようにしたいものです。まさに、人は「時・処・位」の複雑の様相の中で生きているのです。グループ体験を語ることも、またグループ体験の中で語られる参加者の生き様も、まさに「時・処・位」から一つのシーンとして理解することが大切なのでしょう。
そして、易経は、それぞれのシーンにあわせた対処の仕方も教えてくれるのだそうです。これから学んでいきたいと思います。
2014年08月12日
徳島の家にすてきなテーブルと椅子のセットを購入しました!!!
2014年8月11日(月)午前10時過ぎに、友人夫婦が経営する工房家具『杏詩木(アンディゴ)』にて、表題のテーブルと椅子を購入し、搬入されました。

こちらの夫妻(写真は旧友の“いくぞう”こと吉田くん)は、昭和小学校の同級生。小学校時代、中学校、時代をともにすごした仲間です。無垢の木材を使ったすてきな家具をデザイン・制作・販売しています。
http://www.nmt.ne.jp/~indigo/
すでに、愛知日進の自宅や福岡の娘夫婦のところに食卓用のすてきなテーブルと椅子を購入しています。息子夫婦も気に入り、自分たちの部屋にも立派な座卓を購入している履歴があります。
その中で、なかなか四国徳島に帰ってくることが難しいのですが、帰ってくると、徳島の家には、座卓しかなく、PCなどを使ってちょこっと仕事をするだけで、座することが苦痛になってくるお年頃になってしまい、椅子式で座れるテーブルを購入したいと以前から考えていました。
そして、できることながら、あまり使わないかもしれないけど、工房家具『杏詩木(アンディゴ)』のテーブルと椅子を入れたいと思っていました。そんな話を少し前からしており、工房家具『杏詩木(アンディゴ)』の二人に相談し、今回のお盆徳島帰りの折に、彼らが勧めてくれるテーブルと椅子を購入しようと決めて、帰郷した次第です。そして、それがこれです。4人で記念写真。

テーブルは、無垢の欅(ケヤキ)です。自然乾燥のために少し割れ目がありますが、それも味わい、それらもすべてデザインされています。年輪の色合い、流れの美しさは大自然の美しさといったらいいのでしょうか。とてもきれいでしなやかな感じです。

椅子は、いろいろ思案したのですが、このテーブル用に少し足を低めにセットしていただいたアームチェアを2台。これは日進の自宅でも使っているのですが、なかなか安定感があって、また肘掛けもあることで食卓テーブル用ではありますが、ゆったりと座ることができます。

そして、もう一つのすてきな椅子が、ベンチチェアです。こちらの材は、テーブルと同じケヤキだそうです。色は白いのですが、少し形が変わっていて、これもまた自然な感じのすてきな仕上がりです。

これだけすてきな家具に囲まれると、しばらく四国徳島でゆっくり過ごしたい気持ちになっています。
追伸:先日の台風11号はすごく大きな台風でした。徳島にはかなり被害をもたらしています。いつもなら、我が家も心配するのですが、昨年来、裏の鉄骨の2階建ては壊してしまい平地にしたり、周囲を囲む塀もすべて新調したので、今回は以前より安心感をもっていられました。また、家屋内のトイレも改修して新しい水洗トイレにしましたので、余計に私にとっては大事な第二宅になりそうです。
こちらの夫妻(写真は旧友の“いくぞう”こと吉田くん)は、昭和小学校の同級生。小学校時代、中学校、時代をともにすごした仲間です。無垢の木材を使ったすてきな家具をデザイン・制作・販売しています。
http://www.nmt.ne.jp/~indigo/
すでに、愛知日進の自宅や福岡の娘夫婦のところに食卓用のすてきなテーブルと椅子を購入しています。息子夫婦も気に入り、自分たちの部屋にも立派な座卓を購入している履歴があります。
その中で、なかなか四国徳島に帰ってくることが難しいのですが、帰ってくると、徳島の家には、座卓しかなく、PCなどを使ってちょこっと仕事をするだけで、座することが苦痛になってくるお年頃になってしまい、椅子式で座れるテーブルを購入したいと以前から考えていました。
そして、できることながら、あまり使わないかもしれないけど、工房家具『杏詩木(アンディゴ)』のテーブルと椅子を入れたいと思っていました。そんな話を少し前からしており、工房家具『杏詩木(アンディゴ)』の二人に相談し、今回のお盆徳島帰りの折に、彼らが勧めてくれるテーブルと椅子を購入しようと決めて、帰郷した次第です。そして、それがこれです。4人で記念写真。
テーブルは、無垢の欅(ケヤキ)です。自然乾燥のために少し割れ目がありますが、それも味わい、それらもすべてデザインされています。年輪の色合い、流れの美しさは大自然の美しさといったらいいのでしょうか。とてもきれいでしなやかな感じです。
椅子は、いろいろ思案したのですが、このテーブル用に少し足を低めにセットしていただいたアームチェアを2台。これは日進の自宅でも使っているのですが、なかなか安定感があって、また肘掛けもあることで食卓テーブル用ではありますが、ゆったりと座ることができます。
そして、もう一つのすてきな椅子が、ベンチチェアです。こちらの材は、テーブルと同じケヤキだそうです。色は白いのですが、少し形が変わっていて、これもまた自然な感じのすてきな仕上がりです。
これだけすてきな家具に囲まれると、しばらく四国徳島でゆっくり過ごしたい気持ちになっています。
追伸:先日の台風11号はすごく大きな台風でした。徳島にはかなり被害をもたらしています。いつもなら、我が家も心配するのですが、昨年来、裏の鉄骨の2階建ては壊してしまい平地にしたり、周囲を囲む塀もすべて新調したので、今回は以前より安心感をもっていられました。また、家屋内のトイレも改修して新しい水洗トイレにしましたので、余計に私にとっては大事な第二宅になりそうです。
2014年08月11日
易経に学ぶファシリテーション(11)
■「中する」とはバランスをとること?
前回、ものごとにある陰と陽の識別とその両面性を見る力、大切にすることがファシリテーションには必要であると述べました。議論の中で、勝ちと負けを作るのではなく、それぞれの言い分を聞きながら適切な対処をすることがファシリテーションには大切になるでしょう。その時には、バランスをとる感覚が大切だなあと思われる方が多いのではないでしょうか。AとBの中庸を得るようにすると言ったら良いんでしょうか?この真ん中をとることが易経でいう「中する」ことではないとあっこちゃんは先日の例会で話してくれました。「中する」とは、真ん中をとるようにバランスをとるのではなく、両者のアイデアをしっかり聴き、活かして、新しい次元での解決策を得るようにすることだと話されたのです。確かに!!この「中する」という意味は、ファシリテーターは肝に銘じておくべきでしょう。とても大切な視点だと思います。
そして、その際に、「器量」と「度量」との違いも話されました。「器量」とは、自分のポストをヶ座さずに仕事をやること(陽)です。「度量」とは相手が自分を否定していることも知って、その人の意見を聴き受け容れること(陰)です。この見返りを考えずに譲る、受け容れることができる器が「度量」であり、ファシリテーションを行うファシリテーターに求められていることではないでしょうか。ともすれば、ファシリテーターである立場を保全するために、メンバーに働きかけたり、メンバーの発言を処理したりしてしまっていないか、自問自答する必要がありそうです。
男性は発するだけで、女性はそれを受け容れます。そして化し、生命体を創るのです。発する人は、陰にたよらないと生まれないとも。また実現させるものがないと、陽は陽として存在しないと言ったらいいのかもしれません。
私たち、ファシリテーターは、時として、大地として機能し、時としてその大地を創り出すことを支援する存在になることが大切なのかもしれません。大地として機能する器としてのグループ、それは信頼関係がベースになった相互依存関係であるといってもいいのではないでしょうか。その信頼関係をいかに創り出すか?それは、ファシリテーターだけの仕事ではありません。メンバー間の関係がいかに相互依存関係になるか、それは、ファシリテーターとメンバーとの関係もしかりです。やはりファシリテーターのありようがいつも問われることになるのです。
前回、ものごとにある陰と陽の識別とその両面性を見る力、大切にすることがファシリテーションには必要であると述べました。議論の中で、勝ちと負けを作るのではなく、それぞれの言い分を聞きながら適切な対処をすることがファシリテーションには大切になるでしょう。その時には、バランスをとる感覚が大切だなあと思われる方が多いのではないでしょうか。AとBの中庸を得るようにすると言ったら良いんでしょうか?この真ん中をとることが易経でいう「中する」ことではないとあっこちゃんは先日の例会で話してくれました。「中する」とは、真ん中をとるようにバランスをとるのではなく、両者のアイデアをしっかり聴き、活かして、新しい次元での解決策を得るようにすることだと話されたのです。確かに!!この「中する」という意味は、ファシリテーターは肝に銘じておくべきでしょう。とても大切な視点だと思います。
そして、その際に、「器量」と「度量」との違いも話されました。「器量」とは、自分のポストをヶ座さずに仕事をやること(陽)です。「度量」とは相手が自分を否定していることも知って、その人の意見を聴き受け容れること(陰)です。この見返りを考えずに譲る、受け容れることができる器が「度量」であり、ファシリテーションを行うファシリテーターに求められていることではないでしょうか。ともすれば、ファシリテーターである立場を保全するために、メンバーに働きかけたり、メンバーの発言を処理したりしてしまっていないか、自問自答する必要がありそうです。
男性は発するだけで、女性はそれを受け容れます。そして化し、生命体を創るのです。発する人は、陰にたよらないと生まれないとも。また実現させるものがないと、陽は陽として存在しないと言ったらいいのかもしれません。
私たち、ファシリテーターは、時として、大地として機能し、時としてその大地を創り出すことを支援する存在になることが大切なのかもしれません。大地として機能する器としてのグループ、それは信頼関係がベースになった相互依存関係であるといってもいいのではないでしょうか。その信頼関係をいかに創り出すか?それは、ファシリテーターだけの仕事ではありません。メンバー間の関係がいかに相互依存関係になるか、それは、ファシリテーターとメンバーとの関係もしかりです。やはりファシリテーターのありようがいつも問われることになるのです。
2014年08月10日
2014年8月9日台風11号と対峙しながら四国徳島へのドライブの顛末
昨日は、多くの方にご心配をおかけしました。無事に、四国徳島に入り、家内の実家にて、一晩を過ごすことができました。
昨日は、朝早く立てば、徳島に着けると思い、午前6時30分までに荷物を詰め込み、我が家を出発。まずは、いつものガソリンスタンドで、満タン給油。その後、少し走り出すと、オイルゲージのランプが点灯!!!愛車アウディA4アバントくんのオイルを求め、彷徨うも、結局ディーラが開くの待って、異例の8時30分頃にオイル給油と、タイア空気圧チェックを済ませ出発!!!(くれぐれも、遠出する場合には、前日までにチェックはしておきましょう!!)
と、その頃、友人から、洲本ー津田東間、通行止めとのこと。さて、どうする?
自宅に帰って、明日の出発にしようか?それとも、行けるところまで行って、京都か大阪で宿をとるか?など・・
結局、行けるところまで行こう!ということに。そして、いろいろ話しながら、東名阪に入る。途中、四日市ー鈴鹿間がかなりの渋滞60分ほどかかったでしょうか。その間の話も家内といろいろ可能性を考えながら。新名神に入ると雨・風が強くなってきました。とにかく、運転しながら、淡路島まで行って、淡路島のサービスエリアで、鳴門大橋の通行止めをまとうという話になり、名神ー中国道ー山陽道と向かいました。中国道ー山陽道あたりは、雨もやみ快調なドライブ。淡路島に向かう分岐点になる三木ジャンクションが差し迫ってくる中、ナビが急に、鳴門大橋通行止めのためにコースを変えますか?と問いかけられる。そうか、山陽道→瀬戸中央道→坂出→高松→徳島か?と。瞬間の決断で、そちらのコースをとることに。これが結構正解でした。雨・風もそう強くなく、瀬戸中央道あたりで、風が強く雨が降っている感じで、無事に四国に渡ることに成功。
香川白鳥から阿波市に入る峠をちょっと激し目の雨の中、家内の実家にたどり着きました。
走った後の道路が、次々と通行止めになったようです。四日市からの西への名阪道路、亀山から甲賀土山、瀬戸中央道、高松道、と。
とにかく、よく決断し、よく走って帰ってきたものです。昨夜、というか今朝の風雨はすごかったです。さすが台風。それぞれの地区で生活されている方々が無事に過ごされていることを願うばかりです。
それにしても、我が実家がある南佐古には避難警告が出ているとのこと、少し落ち着いたら、見に行かねば・・・
昨日は、朝早く立てば、徳島に着けると思い、午前6時30分までに荷物を詰め込み、我が家を出発。まずは、いつものガソリンスタンドで、満タン給油。その後、少し走り出すと、オイルゲージのランプが点灯!!!愛車アウディA4アバントくんのオイルを求め、彷徨うも、結局ディーラが開くの待って、異例の8時30分頃にオイル給油と、タイア空気圧チェックを済ませ出発!!!(くれぐれも、遠出する場合には、前日までにチェックはしておきましょう!!)
と、その頃、友人から、洲本ー津田東間、通行止めとのこと。さて、どうする?
自宅に帰って、明日の出発にしようか?それとも、行けるところまで行って、京都か大阪で宿をとるか?など・・
結局、行けるところまで行こう!ということに。そして、いろいろ話しながら、東名阪に入る。途中、四日市ー鈴鹿間がかなりの渋滞60分ほどかかったでしょうか。その間の話も家内といろいろ可能性を考えながら。新名神に入ると雨・風が強くなってきました。とにかく、運転しながら、淡路島まで行って、淡路島のサービスエリアで、鳴門大橋の通行止めをまとうという話になり、名神ー中国道ー山陽道と向かいました。中国道ー山陽道あたりは、雨もやみ快調なドライブ。淡路島に向かう分岐点になる三木ジャンクションが差し迫ってくる中、ナビが急に、鳴門大橋通行止めのためにコースを変えますか?と問いかけられる。そうか、山陽道→瀬戸中央道→坂出→高松→徳島か?と。瞬間の決断で、そちらのコースをとることに。これが結構正解でした。雨・風もそう強くなく、瀬戸中央道あたりで、風が強く雨が降っている感じで、無事に四国に渡ることに成功。
香川白鳥から阿波市に入る峠をちょっと激し目の雨の中、家内の実家にたどり着きました。
走った後の道路が、次々と通行止めになったようです。四日市からの西への名阪道路、亀山から甲賀土山、瀬戸中央道、高松道、と。
とにかく、よく決断し、よく走って帰ってきたものです。昨夜、というか今朝の風雨はすごかったです。さすが台風。それぞれの地区で生活されている方々が無事に過ごされていることを願うばかりです。
それにしても、我が実家がある南佐古には避難警告が出ているとのこと、少し落ち着いたら、見に行かねば・・・
2014年08月08日
易経に学ぶファシリテーション(10)
■「天の時、地の利、人の和」の三条件を満たすこと■
あっこちゃんは、(大)自然はいつも何も包み隠さず、変化のお手本を示してくれていると話されます。人間がそれに習うならば、人生で起こることも、わかりやすく、やさしいものになるとおしえてくれているのです。「易簡」ですね。
しかし、私たち人間はそうのように自然の法則に素直に従おうとしないものです。少しでもたくさんのものを持ちたくなる欲が生まれたり、こうなりたいああなりたいと望みや期待が沸いてきます。私自身のそのお手本のようなものです。陰と陽を見誤って、冬の凍った大地に種をまくようなことをしてしまうものです。
「天地人三才」という言葉があるそうです。「三才」とは三つの才能、働きをさしています。孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」というのがあります。ものごとを成就するためには「天の時、地の利、人の和」の三条件を満たすことが大切だと言われているのです。
「天の時」とは時、時代、タイミング、「地の利」とは環境、場で、とりわけ大事なのが「人の和」が大事だと言われています。時と環境が整って、人の働きが加わってこそものごとは成就するのです。人間は天と地の中間に立っており、易経は天道、地道、人道、つまり天の働き、地の働き、人の働きの3つの陰陽がぴったり合ったときに変化が起こり、新たなものが生み出されると考えられています。
ファシリテーターは、まさにこの3つの働きをしっかりと見定める必要があるのでしょう。天と地との間に立っている一人の人間として、天の時と地の利をいかに用いるかといった課題・テーマがあると言ったらいいでしょうか。そして、もっと欲張った考え方かもしれませんが、天の時と地の利の間にいるメンバーやグループの陰と陽を見定めながら、自然の法則に逆らわないように働きかけることができればすばらしいファシリテーションであるといえ、またファシリテーターになるのでしょう。
あっこちゃんは、(大)自然はいつも何も包み隠さず、変化のお手本を示してくれていると話されます。人間がそれに習うならば、人生で起こることも、わかりやすく、やさしいものになるとおしえてくれているのです。「易簡」ですね。
しかし、私たち人間はそうのように自然の法則に素直に従おうとしないものです。少しでもたくさんのものを持ちたくなる欲が生まれたり、こうなりたいああなりたいと望みや期待が沸いてきます。私自身のそのお手本のようなものです。陰と陽を見誤って、冬の凍った大地に種をまくようなことをしてしまうものです。
「天地人三才」という言葉があるそうです。「三才」とは三つの才能、働きをさしています。孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」というのがあります。ものごとを成就するためには「天の時、地の利、人の和」の三条件を満たすことが大切だと言われているのです。
「天の時」とは時、時代、タイミング、「地の利」とは環境、場で、とりわけ大事なのが「人の和」が大事だと言われています。時と環境が整って、人の働きが加わってこそものごとは成就するのです。人間は天と地の中間に立っており、易経は天道、地道、人道、つまり天の働き、地の働き、人の働きの3つの陰陽がぴったり合ったときに変化が起こり、新たなものが生み出されると考えられています。
ファシリテーターは、まさにこの3つの働きをしっかりと見定める必要があるのでしょう。天と地との間に立っている一人の人間として、天の時と地の利をいかに用いるかといった課題・テーマがあると言ったらいいでしょうか。そして、もっと欲張った考え方かもしれませんが、天の時と地の利の間にいるメンバーやグループの陰と陽を見定めながら、自然の法則に逆らわないように働きかけることができればすばらしいファシリテーションであるといえ、またファシリテーターになるのでしょう。
2014年08月07日
某中学校で教員研修「ラボラトリー方式の体験学習によるグループワーク」
先日2014年8月5日(火)埼玉県にある中学校にお邪魔しました。前回は、2014年1月30日に「ラボラトリー方式の体験学習を導入する意味」と題して、研修を行わせていただきました。平成25年度(2013年度)よりはじまった埼玉県教育委員会指定 地域に応じた学力向上推進モデル事業 知・徳・体のバランスのとれた学力向上「学習意欲の向上をとおして」題した取り組みの応援です。
○分かる授業・楽しい授業の展開(授業力の向上)
○家庭学習の定着(家庭との連携)
○学級経営・学習環境の充実(信頼関係の構築)
○心理指導・キャリア教育の推進(目標の設定)
以上の4つの柱の元研究授業は行われています。
その中で、学級経営・学習環境の充実(信頼関係の構築)の手立ての一つとして「ラボラトリー方式の体験学習」を実施してくださっているようです。1年と1ヶ月の取り組みでいろいろな変化が生まれているようです。
それらの変化や生徒や先生の気づきや学びを、グループワークを実施する前に話し合っていただきました。子供たちの仲間との関わりの変化がいろいろと生まれていたり、お互いに受け入れ合えるかかわりの変化をベースに学力、学ぶことへの意欲の変化なども生まれているようです。
そして、第二回目は、新しいグループワークに取り組んでいただき、再びふりかえることの大切さ、またリーダーシップ(影響関係)のありようの発見などをテーマに実習とお話をしてきました。
最後に、あまり時間がなかったのですが、これまで取り組んできて、今思っているQuestions(質問)をあげてもらいました。ちなみに、下記のようなものを書いてくださいました。こうした問いは、私の課題(宿題)でもあります。
・佐藤学先生の「学びあい」との関連や連携はあるのか?
→関連があるとお答えしました。子供たちに問いを発して、役割など特に決められていないグループの中で、いろいろな意見を出し合い、学ぶこと、協同の学びはとても大切で、ラボラトリー方式の体験学習の学びに通じるものがあります。今日の、協同学習といわれているいろいろなありようの中で、教育技術として、グループのメンバーに役割を決めたり、決められた進め方を通して協同を生み出す協同学習もあります。しかし、ラボラトリー方式の体験学習は、そうした役割やルールを決めるのではなく、まさに生の体験(実験)的に学ぶことを大切にしています。それは、佐藤学先生の「学びとは対象(教材)との出会いと対話であり、他 者(仲間や教師) との出会いと対話であり、自己との出会いと対話である。」として、素朴に対象と出会う体験ができることが大切になると考えています。
・実際の生活の中で、人間関係づくりが苦手な生徒がいます。こういう活動を重ねることで改善できる?
→体験を重ねながら、少しずつ改善されることもあります、時には、グループ活動の中で思いがけない働きをメンバーがして、そのメンバーの働きを他のメンバーが認めてくれる体験を通して、その該当のメンバーが変化することがあります。私自身もそのような体験に出会ったことがあります。まさに、体験のプロセスをしっかり見ることができる、そして気づいたことを認め合える関係づくりが、いつもベースになっているのだろうと思います。
・どんな活動をどんな順番でやるとよいのか?
→今日実施したような情報紙をそれぞれのメンバーがもって問題解決に取り組むようなグループ実習、それも比較的簡単な実習から、少し難しい課題に挑戦したり、できれば、うまくいかなくても、ふりかえりをして、次の自分たちのグループの課題や自分の課題を明確にして、再度挑戦するような実習に取り組むようにされるといいでしょう。また、考え方や価値観などを話し合いながらコンセンサス(合意形成)をするような実習へと展開していくとよいでしょう。
・ふりかえりについてどこまで事前に指導するのか?
→はじめは、ふりかえり用紙に、自分のことや相手のことを書くことが苦手な子、あまり内省できない子もいるかもしれませんが、こちらも何度か実習体験とふりかえりを重ねていく間に、記述は増えていくと思います。時には、どのような言葉や記述をすればいいかも指導することも大切でしょう。具体的な友だちが書き出したふりかえりの記述などもお互いに紹介し合える機会をもつとよいでしょう。
・おわりにどんな点を評価してあげるとよいのか?
→できるかぎり、生徒が発言したことをそのまま受け止める形で応答することをしたいものです。どうしても、それは正しい、それは違うといった反応をしがちですが、実際にそれぞれのメンバーが今感じていることを発言してもらえることが大切です。また、時には、そにはどのような意味があるかなども問うてみるのもいいでしょう。体験学習の循環過程を意識して、応答するとよいのではないかと考えています。
その他、質問をいただきましたが、回答ができずに帰ってきました。それが、以下の問いです。このブログでも、だいぶ長くなりましたので、またの機会に回答をさせていただきます。
・グループの中で消極的な子どもが発言するようになるにはどうすればよいか?
・グループワークの中でも、受け身がち消極的な生徒への対応は?
・どうしても、グループで関わるのが苦手で話し合いに参加できない生徒は、その場にいるだけでよしとなる?プラスになることもありますか?
・課題が早く解決したグループや行き詰まってしまい、時間をもてあましているグループへどう配慮するか?
・対象年齢に合わせた体験学習があるのか?
・教科で実践する時の体験学習のふりかえりの時間の割合(配分)は?
以上、8月5日の研修の記録として、アップしておきます。読者のみなさまに参考になりば幸いです。
○分かる授業・楽しい授業の展開(授業力の向上)
○家庭学習の定着(家庭との連携)
○学級経営・学習環境の充実(信頼関係の構築)
○心理指導・キャリア教育の推進(目標の設定)
以上の4つの柱の元研究授業は行われています。
その中で、学級経営・学習環境の充実(信頼関係の構築)の手立ての一つとして「ラボラトリー方式の体験学習」を実施してくださっているようです。1年と1ヶ月の取り組みでいろいろな変化が生まれているようです。
それらの変化や生徒や先生の気づきや学びを、グループワークを実施する前に話し合っていただきました。子供たちの仲間との関わりの変化がいろいろと生まれていたり、お互いに受け入れ合えるかかわりの変化をベースに学力、学ぶことへの意欲の変化なども生まれているようです。
そして、第二回目は、新しいグループワークに取り組んでいただき、再びふりかえることの大切さ、またリーダーシップ(影響関係)のありようの発見などをテーマに実習とお話をしてきました。
最後に、あまり時間がなかったのですが、これまで取り組んできて、今思っているQuestions(質問)をあげてもらいました。ちなみに、下記のようなものを書いてくださいました。こうした問いは、私の課題(宿題)でもあります。
・佐藤学先生の「学びあい」との関連や連携はあるのか?
→関連があるとお答えしました。子供たちに問いを発して、役割など特に決められていないグループの中で、いろいろな意見を出し合い、学ぶこと、協同の学びはとても大切で、ラボラトリー方式の体験学習の学びに通じるものがあります。今日の、協同学習といわれているいろいろなありようの中で、教育技術として、グループのメンバーに役割を決めたり、決められた進め方を通して協同を生み出す協同学習もあります。しかし、ラボラトリー方式の体験学習は、そうした役割やルールを決めるのではなく、まさに生の体験(実験)的に学ぶことを大切にしています。それは、佐藤学先生の「学びとは対象(教材)との出会いと対話であり、他 者(仲間や教師) との出会いと対話であり、自己との出会いと対話である。」として、素朴に対象と出会う体験ができることが大切になると考えています。
・実際の生活の中で、人間関係づくりが苦手な生徒がいます。こういう活動を重ねることで改善できる?
→体験を重ねながら、少しずつ改善されることもあります、時には、グループ活動の中で思いがけない働きをメンバーがして、そのメンバーの働きを他のメンバーが認めてくれる体験を通して、その該当のメンバーが変化することがあります。私自身もそのような体験に出会ったことがあります。まさに、体験のプロセスをしっかり見ることができる、そして気づいたことを認め合える関係づくりが、いつもベースになっているのだろうと思います。
・どんな活動をどんな順番でやるとよいのか?
→今日実施したような情報紙をそれぞれのメンバーがもって問題解決に取り組むようなグループ実習、それも比較的簡単な実習から、少し難しい課題に挑戦したり、できれば、うまくいかなくても、ふりかえりをして、次の自分たちのグループの課題や自分の課題を明確にして、再度挑戦するような実習に取り組むようにされるといいでしょう。また、考え方や価値観などを話し合いながらコンセンサス(合意形成)をするような実習へと展開していくとよいでしょう。
・ふりかえりについてどこまで事前に指導するのか?
→はじめは、ふりかえり用紙に、自分のことや相手のことを書くことが苦手な子、あまり内省できない子もいるかもしれませんが、こちらも何度か実習体験とふりかえりを重ねていく間に、記述は増えていくと思います。時には、どのような言葉や記述をすればいいかも指導することも大切でしょう。具体的な友だちが書き出したふりかえりの記述などもお互いに紹介し合える機会をもつとよいでしょう。
・おわりにどんな点を評価してあげるとよいのか?
→できるかぎり、生徒が発言したことをそのまま受け止める形で応答することをしたいものです。どうしても、それは正しい、それは違うといった反応をしがちですが、実際にそれぞれのメンバーが今感じていることを発言してもらえることが大切です。また、時には、そにはどのような意味があるかなども問うてみるのもいいでしょう。体験学習の循環過程を意識して、応答するとよいのではないかと考えています。
その他、質問をいただきましたが、回答ができずに帰ってきました。それが、以下の問いです。このブログでも、だいぶ長くなりましたので、またの機会に回答をさせていただきます。
・グループの中で消極的な子どもが発言するようになるにはどうすればよいか?
・グループワークの中でも、受け身がち消極的な生徒への対応は?
・どうしても、グループで関わるのが苦手で話し合いに参加できない生徒は、その場にいるだけでよしとなる?プラスになることもありますか?
・課題が早く解決したグループや行き詰まってしまい、時間をもてあましているグループへどう配慮するか?
・対象年齢に合わせた体験学習があるのか?
・教科で実践する時の体験学習のふりかえりの時間の割合(配分)は?
以上、8月5日の研修の記録として、アップしておきます。読者のみなさまに参考になりば幸いです。
2014年08月04日
易経から学ぶファシリテーション(09)
■万物に「陰と陽」の二面性を観ること■
ずいぶん7月19日開催の日本ファシリテーション協会中部支部主催の定例会で出会った「易経とファシリテーション」ここまでシリーズを重ねてきました。
次は、3つめのお題であった「陰の力と陽の力」です。これは、かなり内包されている意味がたっぷりありそうで、津村の理解では浅薄な記述になるかもしれませんが、お許しください。
古代の聖人伏羲(ふっき)が陰陽を唱え、八卦(はつか)さらに六十四卦(ろくじゅうよんか)を考案したのが易経のはじまりとされているようです。易経は、ものごとを陰か陽かに判別するところから始まるようです。
つまり弱い(陰)か強い(陽)か、裏(陰)か表(陽)かといったように、正反対の性質にもの後を分けるのです。あっこちゃん(2012)より、下記のような例が挙げられています。
<陰> 地 夜 悪 邪 止 弱 裏 柔 小 月 寒 冬 女 子 ー
<陽> 天 昼 善 正 動 強 表 剛 大 日 暑 夏 男 親 +
すべてのものごとは、正反対の二面性をもち、陰と陽とが同時に生じていると考えています。人間は、陰でも陽でもない対局として考えられ、それを性別で分ければ女性が陰で男性が陽となります。性格で考えると、強い(陽)か弱い(陰)かなどと分けることもできるでしょう。自然を天と地に分けると、天(陽)と地(陰)になります。
陰と陽は表裏一体のものであると教えてくれています。どちらか一方がなければ、もう一方がないということです。昼がなければ夜もない、逆に言えば、昼があるから夜があるといったらいいんどえしょうか。陰といえば、善悪で言えば悪であり、優劣で言えば劣っているということですが、それで優劣をつけることではないのです。どちらもともにあることと理解することが必要なのです。
このお話から、私は、図地反転図を思い出しました。何かを見たときに、図になるもの(陽)と背景の地になるもの(陰)に分けられます。地があるから図があるのであり、図があるから地があるのです。こうした関係が陰と陽との関係なのだろうと思います。私たち、グループを見るときにも、どうしても自分の目の前で特別に目立った存在であるメンバーであったり、出来事であったりすることにとらわれやすいものです。目がそこにいくのです。しかし、その背景になっている人たちにも光を当てることが大切なことは結構あります。何か反対意見を強く言っている人が図になり、それを黙って見守っている人は扱われずに時が過ぎることがあります。また、逆に、ファシリテーターに都合の良いことを言ってくれるメンバーに光が当たり、少し疑問に感じているメンバーがいても気づかずにやり過ごしてしまうことがあるのではないでしょうか。
このすべての出来事には、「陰と陽がある」という視点は、ファシリテーションにおいて絶えず持ち続ける必要がある視点だと思います。たくさんの事例が思い出されそうです。
ずいぶん7月19日開催の日本ファシリテーション協会中部支部主催の定例会で出会った「易経とファシリテーション」ここまでシリーズを重ねてきました。
次は、3つめのお題であった「陰の力と陽の力」です。これは、かなり内包されている意味がたっぷりありそうで、津村の理解では浅薄な記述になるかもしれませんが、お許しください。
古代の聖人伏羲(ふっき)が陰陽を唱え、八卦(はつか)さらに六十四卦(ろくじゅうよんか)を考案したのが易経のはじまりとされているようです。易経は、ものごとを陰か陽かに判別するところから始まるようです。
つまり弱い(陰)か強い(陽)か、裏(陰)か表(陽)かといったように、正反対の性質にもの後を分けるのです。あっこちゃん(2012)より、下記のような例が挙げられています。
<陰> 地 夜 悪 邪 止 弱 裏 柔 小 月 寒 冬 女 子 ー
<陽> 天 昼 善 正 動 強 表 剛 大 日 暑 夏 男 親 +
すべてのものごとは、正反対の二面性をもち、陰と陽とが同時に生じていると考えています。人間は、陰でも陽でもない対局として考えられ、それを性別で分ければ女性が陰で男性が陽となります。性格で考えると、強い(陽)か弱い(陰)かなどと分けることもできるでしょう。自然を天と地に分けると、天(陽)と地(陰)になります。
陰と陽は表裏一体のものであると教えてくれています。どちらか一方がなければ、もう一方がないということです。昼がなければ夜もない、逆に言えば、昼があるから夜があるといったらいいんどえしょうか。陰といえば、善悪で言えば悪であり、優劣で言えば劣っているということですが、それで優劣をつけることではないのです。どちらもともにあることと理解することが必要なのです。
このお話から、私は、図地反転図を思い出しました。何かを見たときに、図になるもの(陽)と背景の地になるもの(陰)に分けられます。地があるから図があるのであり、図があるから地があるのです。こうした関係が陰と陽との関係なのだろうと思います。私たち、グループを見るときにも、どうしても自分の目の前で特別に目立った存在であるメンバーであったり、出来事であったりすることにとらわれやすいものです。目がそこにいくのです。しかし、その背景になっている人たちにも光を当てることが大切なことは結構あります。何か反対意見を強く言っている人が図になり、それを黙って見守っている人は扱われずに時が過ぎることがあります。また、逆に、ファシリテーターに都合の良いことを言ってくれるメンバーに光が当たり、少し疑問に感じているメンバーがいても気づかずにやり過ごしてしまうことがあるのではないでしょうか。
このすべての出来事には、「陰と陽がある」という視点は、ファシリテーションにおいて絶えず持ち続ける必要がある視点だと思います。たくさんの事例が思い出されそうです。
2014年08月03日
易経から学ぶファシリテーション(08)
■「兆しを観ること」が可能なのか?■
シリーズ(07)において、「兆し」を観るための、目に見えるここの動きの変化を丁寧に見て、観ることができるようになることがファシリテーターの大きな働きであることを紹介しました。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」という言葉あるそうです。このことは、この世のあらゆるものは究極に達すると変化するということの意味だそうです。「究極」とは、とことんまでいってピークに達するということだそうです。つまり冬が窮まれば春になるというわけです。春が窮まれば夏になるというように、ものごとは行き詰まることなく、新たに成長し発展していくと考えられています。
易経では、ものごとが窮まったときに、兆しが生じていると教えてくれています。これもあっこちゃん(2012)の中でのお話です。易経では、冬がピークを迎えるのを冬至としています。これが潜象の意味として理解するとよいそうです。冬至は12月22日頃ですが、冬本番はこれからなのに、こんんなに早くという感じです。
冬至は、一年で一番、日が短くなり、この日を境に日が長くなっていくのです。「易は窮まれば変ず」とのことです。潜象として冬が春へと向かう瞬間なのです。このように春の兆しは、私たちが春を肌で感じるずっと前に生じていますが、兆しから萌しがあらわれるまでには、かなり時間差があるのです。苦しい時期を乗り越えたことを思い出す際に、後から思い返すと、あのことがきっかけだったかと思い出すことがあるでしょう。ただ、その時には、まだ苦しいまっただ中でいると、その兆しさえ感じ取れていないこともあります。それがしばらく時間を経て後からみると、今はこんなに改善したかと思えるように状態になっているということがあるのでしょう。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」の言葉を理解していくと、前の(07)で書いていたファシリテーターは「兆し」を観ることが大切な働きと言うことは、大それた発言であったと言わなければなりません。グループ体験の渦中にいて、とても厳しく、苦しい時を過ごしている時に、春を感じる兆しを観ることができればいいのですが、それは欲張りなことのように思います。兆しを観るよりも、その苦しい状況である「今ここ」の中でメンバーとともにいることが大切なのではないかと思えてきます。この先には窮まれば開かれてくる、変化してくる世界が生まれるということを信じて、メンバーと生きることができることが、ファシリテーターの大切な働きかけ、生き方と言えるのではないでしょうか。
そのようなことを易経の「兆しを観る」から考えてみました。
シリーズ(07)において、「兆し」を観るための、目に見えるここの動きの変化を丁寧に見て、観ることができるようになることがファシリテーターの大きな働きであることを紹介しました。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」という言葉あるそうです。このことは、この世のあらゆるものは究極に達すると変化するということの意味だそうです。「究極」とは、とことんまでいってピークに達するということだそうです。つまり冬が窮まれば春になるというわけです。春が窮まれば夏になるというように、ものごとは行き詰まることなく、新たに成長し発展していくと考えられています。
易経では、ものごとが窮まったときに、兆しが生じていると教えてくれています。これもあっこちゃん(2012)の中でのお話です。易経では、冬がピークを迎えるのを冬至としています。これが潜象の意味として理解するとよいそうです。冬至は12月22日頃ですが、冬本番はこれからなのに、こんんなに早くという感じです。
冬至は、一年で一番、日が短くなり、この日を境に日が長くなっていくのです。「易は窮まれば変ず」とのことです。潜象として冬が春へと向かう瞬間なのです。このように春の兆しは、私たちが春を肌で感じるずっと前に生じていますが、兆しから萌しがあらわれるまでには、かなり時間差があるのです。苦しい時期を乗り越えたことを思い出す際に、後から思い返すと、あのことがきっかけだったかと思い出すことがあるでしょう。ただ、その時には、まだ苦しいまっただ中でいると、その兆しさえ感じ取れていないこともあります。それがしばらく時間を経て後からみると、今はこんなに改善したかと思えるように状態になっているということがあるのでしょう。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」の言葉を理解していくと、前の(07)で書いていたファシリテーターは「兆し」を観ることが大切な働きと言うことは、大それた発言であったと言わなければなりません。グループ体験の渦中にいて、とても厳しく、苦しい時を過ごしている時に、春を感じる兆しを観ることができればいいのですが、それは欲張りなことのように思います。兆しを観るよりも、その苦しい状況である「今ここ」の中でメンバーとともにいることが大切なのではないかと思えてきます。この先には窮まれば開かれてくる、変化してくる世界が生まれるということを信じて、メンバーと生きることができることが、ファシリテーターの大切な働きかけ、生き方と言えるのではないでしょうか。
そのようなことを易経の「兆しを観る」から考えてみました。
2014年08月02日
易経から学ぶファシリテーション(07)
■適切に対処する「時中」のタイミングとは■
グループや個人の状況をみながら、働きかけるファシリテーションのタイミングはいつがいいのでしょうか?四季にあった時中、その時に適切な対処をする、ファシリテーションをすることの難しさがあります。自然に季節があるようにその季節を知り、その季節にあった時期に種をまくようにと言われても、いつその行いをすればよいのか、疑問がわきます。
そのことについて、あっこちゃん(2012)は、「兆しを観る」ことだと言ってくれています。このときに、「見る」ではなく、「観る」という漢字を使い分けて紹介してくれています。「見る」とは目に見えるときに使い、目に見えないものを感じとって察することを「観る」と易経では使い分けているのです。
あっこちゃん(2012)の著作の中で、物理学者でカタカムナ文明で有名な楢崎皐月(ならざきこうげつ)さんとの出会いが書かれています。楢崎さんが「潜象は現象に前駆する」と言われたそうです。その時に「易経のいう兆しとはこれだ!」と一瞬にして腑に落ちたそうです。種をまく時期(タイミング)とは、この兆しを観ることです。
易経の「きざし」とは目には見えないけれど感じることができる、察することができることです。このことは、グループ体験のファシリテーターにとっても大切な視点になります。まさに目の前にいるメンバーやグループの中に起こっていることを自分の目で見て、そのメンバー小さな動き、変化に気づき、その人の中で起こっていること(プロセス)やそのグループの中で起こっている(プロセス)など目に見えない現象を感じとり、察することがどれほどできるかが、大きな仕事になります。このことは、ファシリテーターの感受性と言ってもいいでしょう。ファシリテーターにとってこの兆しを観ることができる力(感受性)が豊かであることが大事になります。
この兆しを観るための、目に見える一人ひとりの動きの変化を丁寧に見て、観ることができるようになりたいものです。
グループや個人の状況をみながら、働きかけるファシリテーションのタイミングはいつがいいのでしょうか?四季にあった時中、その時に適切な対処をする、ファシリテーションをすることの難しさがあります。自然に季節があるようにその季節を知り、その季節にあった時期に種をまくようにと言われても、いつその行いをすればよいのか、疑問がわきます。
そのことについて、あっこちゃん(2012)は、「兆しを観る」ことだと言ってくれています。このときに、「見る」ではなく、「観る」という漢字を使い分けて紹介してくれています。「見る」とは目に見えるときに使い、目に見えないものを感じとって察することを「観る」と易経では使い分けているのです。
あっこちゃん(2012)の著作の中で、物理学者でカタカムナ文明で有名な楢崎皐月(ならざきこうげつ)さんとの出会いが書かれています。楢崎さんが「潜象は現象に前駆する」と言われたそうです。その時に「易経のいう兆しとはこれだ!」と一瞬にして腑に落ちたそうです。種をまく時期(タイミング)とは、この兆しを観ることです。
易経の「きざし」とは目には見えないけれど感じることができる、察することができることです。このことは、グループ体験のファシリテーターにとっても大切な視点になります。まさに目の前にいるメンバーやグループの中に起こっていることを自分の目で見て、そのメンバー小さな動き、変化に気づき、その人の中で起こっていること(プロセス)やそのグループの中で起こっている(プロセス)など目に見えない現象を感じとり、察することがどれほどできるかが、大きな仕事になります。このことは、ファシリテーターの感受性と言ってもいいでしょう。ファシリテーターにとってこの兆しを観ることができる力(感受性)が豊かであることが大事になります。
この兆しを観るための、目に見える一人ひとりの動きの変化を丁寧に見て、観ることができるようになりたいものです。